平成10年代に療育受けて育ったASDワイ
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2歳まで歩けなかったんや。
1歳半検診でもグレー判定やったで。
幼稚園に入ると、集団行動が壊滅的なんや。それに場面緘黙状態やった。
再び保母に指摘されて、母ちゃんは療育センターにワイを連れて行ったで。
当時はSNSもなければ、発達障害もよく知られていない時代や、
母ちゃんは辛かった思うで。 療育センターで初めて、アスペルガー症候群の診断を受けたで。
当時4歳や。だいたい20年前やな
余談だが親父も60歳やが、昔に知的障害を疑われて検査に送られてるんや。
たぶん親父もアスペルガーや。 療育センターには、重度の肢体不自由児や知的障害児がたくさんいたで。
歩行器で歩く練習をしてたり、寝た姿勢で車椅子に乗っていた。車椅子はたぶん一人ひとり特注なんや。 ただ、どの障害種も軽度の子は少なかった。というかほぼワイだけや
療育は個別療育やったで。
巨大なトランポリンや、クルクル回転する遊具が部屋にあって、それに乗って訓練したで。
めちゃくちゃ楽しかったで。
あとは勉強や
見本の通りに図形を組み合わせたり
折り紙を折ったりな ワイの息子ASD、小1の支援級やがさっそく不登校やわ
参考になるで 療育センターは小二まで通った。
学校は普通学級やったで。
いじめられたというか、かなりクラスで嫌われてて辛かった。
幼児期から、友達と遊んで楽しかったって経験がほぼ全くないんや。
幼い頃はそれが社会勉強だから、培われてないのは割と壊滅的やな。
でも、学校は辛くても療育は楽しかったで。毎日でも行きたいと思ったわ。 そうそう、5歳の時に、舌癒着症とかいう手術を受けたんや。
それが発達障害の要因の一つ、みたいに言われてな。
本当なのかは分からないが、確かに手術をしてから少し障害が軽くなったで。
まずワイはミミズみたいな線しか引けなかったんや。それが、術後は年齢相応の絵をかけるようになった。
動物が病院に通っている絵やった。
お遊戯も参加できなかったのが、できるようになったで。 話戻すわ。小学生編や
小一からは児童デイにも通ったで。
やはり、当時は重度知的の子が利用児の大半やった。
体も不自由で、台に寝かされて体操をしてる子もいたで。 デイは小規模で、幼児から高校生までいたで。
ワイは小さい子が好きやったから、よく幼児の子に絵本を読んでやったり、ままごとをしたで。
すごく楽しかったなぁ
あと、印象的やったのは、一度、年齢が2倍の重度知的の子に噛まれたことがあったで。
相手は愛情表現のつもりやったんや。
ワイは幼いながら分かってたし、その子を怒らんでほしかった。
なんとか懇願して怒らないでもらったで。 デイではまず皆で一斉に勉強するんや
フラッシュカードを見ながら、都道府県や国旗なんかを覚えるで。
専用の歌もあって、そのおかげで学校の勉強は困らんかった。
勉強の時間、タメの多動の子がめちゃくちゃふざけていた。
彼は多分、知的には軽かったかな?
服を脱いで机の上に立ち上がったりして、先生に怒られてもやめない。
すごく自由で面白い奴やったわ。 >>16
IQ106やで
作動記憶と知覚統合が高くて
処理速度低いで
>>17
23や 似たようなASDだか発達の子がいて普通級入れるか支援級入れるかで迷ってるんや
どっちがええ? >>22
せやなぁ
普通級も支援級も学校によって様々やからなぁ
先生と定期的に相談しながら、在学中に決めるのが安全やと思うで
アドバイスになっとらんですまんな。 デイで習った歌は
交通標識、地図記号、国立公園、川の名前、山の名前、鳥の名前、虫の名前なんかやで。
あとは県庁所在地とかや。
掛け算九九もデイで習わされて、小一の時点でできるようになったで。 そのあとは個人的な運動療育と自由遊びや。
ワイは運動発達遅滞の診断も受けていた。
ブレキレーションって言って、雲梯にぶら下がる練習をさせられたで。
あとは平均台を渡ったり、トランポリンに乗ったで。
そのあとは遊びや。
ワイは小学生、いや中学生になっても、おもちゃを見ると飛びついていた。
小さい子や知的障害の子と遊んでると癒されたで。
同世代と関係を築けなかったワイも問題やが、学校にかわる居場所やったと思うわ。 あと、東京の偉い先生にわざわざ見てもらって、療育の方針を立てたことがあったで。
家でも母ちゃんはかなり熱心に療育してくれた
ブランコ、バランスボール、トランポリンは毎日乗ったで。
あとは、大人が指さしたカードを当てるゲーム。線の上をまっすぐ歩くゲーム。背中に文字を書いてもらって当てるゲームや。 ワイも所詮発達で小2まで“センター“いかされてたけど、中度や重度の知的障害者や、奇声上げるやつのことはどうも好きになれないな 母ちゃんが現実逃避せずしっかり見つめてくれてよかったな
普通級に入れると何とかなるとか思ってる知恵足らずもおるやろ ただ、恵まれた時間も長くは続かなかったで。
ワイが10歳のとき、母ちゃんが変な宗教にハマったんや。
それと同時に、ワイは受動型から積極奇異型に移行した。
一発ギャグをやるという形で、学校に適応できるようになったんや。落ちこぼれの子がよく最終手段でやるやつや。
母ちゃんは、ワイが明るくなったのは御本尊様のおかげ!ワイは健常児になった!と喜んでたで。
ワイも幼かったから、母ちゃんに褒められたくて必死で信仰してたで。 親父は宗教に反対したで。
それで夫婦関係は冷えきって、1度は家庭内別居状態になった。
ワイは比較的勉強は得意やったし、アスペルガー特有の過剰な敬語で話していた。
性格は幼児そのものやったけどな。
親父はそんなワイを心の拠り所にしとったで。こんな優秀な子はいないと毎日褒められたわ。
母ちゃんも勉強には厳しかったし、宗教でもワイだけが頼りやったみたいや。
今思えば、両親に褒めてもらうのが生きがいやったなぁ。逆に言えば言いなりや。
わがままを言ったり、泣いて困らせたこともほとんどないで。それは悪いことやと思っとったで。 ワイは中二でデイサービスを卒業したで。
そのときには両親もワイを健常児だと思っとった。
でもワイは、今思うとクラスで迷惑をかけていたで。
積極奇異と多動がすごくて、授業中も大騒ぎしたり、真剣な場面でもふざけて空気を壊していた。
それに精神的に幼くて、道に落ちてるガラクタを集めるのが趣味やった。
あとは延々とブランコに乗り続けていたで。ゲームや芸能人なんかには興味なかった。
それでもまだ勉強は70点くらい取れたで。宗教も頑張ってたで。 ワイは、高校は進学校に行ったで。
そこで上手くいかなくなった。
勉強全く分からないし、いくら一発ギャグをやっても皆離れていくんや。
遅刻に忘れ物も酷くて、母親が学校に呼び出されたで。 >>37
ガラクタってどういうの?
変わった空き缶とか変な石ころとかそういうのか 先生「ここは進学校ですからね。お子さんのような生徒は受け入れてないんですよ」
コレ、遠回しに「発達障害ですよね?」ってことだよな…。
母ちゃんは落ち込んで帰ってきた。
ワイは母ちゃんを元気づけるために、勉強も信仰も頑張ったで。
お小遣いを全額、教壇に捧げて、毎日足が痺れて倒れるまで祈ったで。
それでも状況は変わらない
それどころかますます悪化していく。
でも、前世の罪が消えてるんやと思って頑張ったで。 わちゃわちゃにクラスかき回したり一発ギャグで場を沸かすのが通用するのは中学までやろな >>40
ボタンとか、BB弾とか、ビー玉や。
拾いまくって親に怒られてたで。
あと、かなり多動も激しくて、宗教の会合でも静かに話を聞けなかった。
親は信仰が薄いせいだと怒ってたで。 おほっ
なかなか読ませるな…
グイグイ引き込まれるわ
ワシ好きなんよ
この手の話 >>11
すまんここで普通に泣きそうになったんやが
動物の絵描いてたんか ええな ワイは自分を優等生やと思ってたから、勉強ができなくなって一気に転落していった。
癇癪を起こすようになったんや。
奇声を発しながら顔を殴って、顔はボコボコや。
初めて泣いて、こんなに涙が出るんやと驚いたで。
次第に〇にたいと思うようになって、数珠を握りしめて首を〇ろうとしたで。
重い話ですまんな
すぐ終わるからな 発達ガイジは周囲が大人になる中学くらいから悪目立ちするようになるな
まともな人はこういうやつを避けようとする でも、そんなワイを支えてくれる人もいたで。
2年生になって担任が変わってから、今思えば配慮してもらっていた。
体育の時間、ワイは嫌すぎて1人で砂遊びをしたり、ボールを持ってステージの幕の裏で遊んでいたんや。
集団に迷惑をかける自分が耐えられへんかった。
先生はそれを何も言わずにいてくれたで。
体育祭も補欠で、ドッジボール1試合だけ出るという味噌っかすルールを適用してくれたんや。
勉強もワイは下手したら零点だから、テストで1問だけ簡単な問題をつけてくれたりな。
テニスの授業も、1人だけ隔離されて壁打ちや。
相談室の先生もすごく気にかけてくれたで。ありがたかったなぁ。 今の風潮やと早めに療育するのがええ!みたいな感じやけど、もし療育行ってなかったらと思うとどうや?
行っててええと思うか? 親は、ワイを理系特進コースに入れて、医者にするのが夢だったで(笑)
当然ワイは赤点だから、文系コースからFラン大学に入るのが精一杯やった。
親も諦めて認めてくれた。 高2で砂遊びか
学友からは一人で砂遊びやボール遊びしてる姿はどう思われてたんやろな >>54
幼少期の居場所やったから行ってよかったで!でも宗教のせいでぶち壊しやなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています